鈴木宏和の人生 VOL.1人と資本を
つなげるため銀行へ

億のお金を右から左に

不思議な辞令をもらって本部へ
様々な事を任されていた

大学を卒業して住友銀行(現三井住友銀行)に入りました。最初は、梅田支店という大阪で一番の繁華街のお店に配属され、億のお金を右から左に動かしてました。 と、言うとすごく聞こえは良いですが、実はATMが30台ぐらいあるような1日1万人もの人が来るお店で、ゴールデンウィーク前にはATMに10億円の紙幣を詰めなきゃいけない。 リアルに億のお金を持って裏まで行って詰めていて、物理的に億のお金を右から左に運んでました(笑)。

支店の融資課で住宅ローンを1年ほど担当した後、本部に転勤になりました。「個人統括部」兼、「融資企画部」という不思議な辞令をもらって。 個人統括部というのは個人部門の企画部で、僕は、個人部門の企画を担当する部署と、融資企画部といって、銀行全体の信用リスクを管理していて、ドラマ『半沢直樹』に出て来る金融庁対応をするような部署を兼務してました。

当時、銀行は部門別制で、個人部門とか法人部門とか市場部門とかに分け始めていたタイミングで、銀行は住宅ローンや投資信託といった個人向けのビジネスに舵を切り始めた頃でした。 僕がもらったミッションは、「個人ローンの信用リスクに関することを、すべてやりなさい」と。野球で言ったら「外野を1人で守るんですか?」「外野って最低3人は必要なんですけど?(笑)」と、 まあそんな感じで好き放題、色んな事を任されてやってました。

外野を一人で、
守るんですか?

銀行経営の中枢を目の当たりに

最も銀行の経営が厳しかった時期

本部に行ったら、扱う桁が億から兆になりました。 当時、僕が見ていたポートフォリオは、個人向けのローン全体で12兆円ぐらい。数千億、兆っていうお金はバーチャルではあるけれども、それぐらいのお金は普通にある、実際に扱えるという感じを持っていましたね。

仕事は具体的には、信用リスク管理モデルといって、「どういうお客さんに貸したらどれぐらいの確率で貸倒れが起きるか」というモデルを作り、 それをベースとして個人ローンに関して銀行の経営において大切な数字を色々と作っていました。 そのため、来期の収益予算、償却引当、業績評価、関係会社再建、新しい世界基準(バーゼルⅡ)対応をどうしていくかを含めて、あらゆる経営会議の事前打ち合わせに出ていたんです。

個人ローンの信用リスクを銀行で横断的に見ているのは入行3年目の自分だけだったので。 当時、公的資本が入って経営健全化計画の初年度だったこともあり、銀行は最も経営が厳しかった時期で、西川さんが頭取でした。ドラマ『半沢直樹』の100倍ぐらい大人の世界でした(笑)。

あるべき経営の姿を目指して

現場の意見を経営層に伝えるのが自分の役割

上司にはとても恵まれていたと思います。
個人統括部長は松本常務でした。常務は本当に素晴らしい方で、いろんな人の意見を聞いてくれる人でした。 少人数の飲み会や、チームの飲み会も含めて、部内のコミュニケーションをとても大切にしている人だったので、常務に対しても、僕は本当に「銀行のあるべき姿」に関して自分の感じることをガンガン言っていました。

銀行って本当に優秀な人が大勢いるんだけれど、よくもこの組織はこれだけ優秀な人材を集めて、無駄遣いしているなと当時は感じていたので、同期や現場の意見を経営層に伝えるのは自分の役目だと思ってました。

優秀な人材を
集めて無駄遣い

今が大切だと、銀行を退職

1年間も待っていられない

本部では住友銀行とさくら銀行の統合に向けた準備を行っていたのですが、実際に合併してみると、結構、銀行の居心地が悪くなりました。 旧住友は若手を登用する文化があり、旧住友と旧さくらとでは、本部の平均年齢が4歳も違っていました。

合併してから半年ほど経ったころ「一旦、現場で修行し直して欲しい。1年ぐらいしたら、海外留学でも、ニューヨークとかロンドンの海外勤務でも、好きなところに行かせてあげるから」と人事部から言われました。 しかし「やってられっか」と、若気の至りで銀行を辞めました。当時の自分は、「1年なんて待っていられない」と思いました。学閥なども考えて銀行に入ったのに、改めて考えてみても若気の至りとしか思えないですね(笑)。