鈴木宏和の人生 VOL.3変容のきっかけ
3.11事故調査

この地球に貢献したい

3.11以降、
電力システム改革に携わってきた

3.11が起きて、東京電力が危機に瀕するんですよね。 その過程で、僕自身が学生時代に、地球温暖化に関してエネルギーというものを通じて「この地球に何か貢献したい」という思いを持っていたことを思い出しました。

そういう背景もあって3.11以降ずっと電力システム改革に携わってきました。

電力システム改革は、ヨーロッパやアメリカで先行して行われていますが、簡単に言うと、発電会社と送電会社を会社として分けるということです。 会社を分けることによって、地球にやさしい再生可能エネルギーの利用を促進し、温暖化に歯止めをかけていくということで、ヨーロッパの電力システム改革を参考にしながら日本でも取り組もうとしています。

南相馬ソーラーアグリパーク

国会の下で事故調査

自分の人生は、
このためにあったんじゃないか

最も印象に残っているのは、縁あって国会の下(もと)で福島の事故の調査をしたことです。 僕が調査をした分野は「事故当時者の組織上の問題点」といって、東京電力の経営者や規制当局が、どのような意思決定した結果、あの事故が起きたか?事故の原因を組織上の問題点から明らかにするというものでした。

そもそも、議会である国会に調査委員会が設けられたことも、歴史上初めての出来事でした。言い換えると、それだけの歴史的な事故が起きたということです。

事故の調査での体験というのは、自己の実現としてはMAXに近い経験でした。それこそ歴史上初めて国会の下に作られた調査委員会で、ある意味スターのような活躍をした。 自分の人生はこのためにあったんじゃないかと思える仕事でした。
なぜならば、エネルギー科学のことは学生時代に勉強していたのでわかる。加えて、企業再生やM&Aなどの経験から企業を調べるということがよくわかっていたし、どういうふうに意思決定するのかもわかっていました。 そしてJAL再生を通じて多くの人が関わる大きなチームを動かすということも経験していましたから。今までの経験、例えばつながりなども含めて、すべてを使って成し遂げることができた仕事でした。

すべてを使って
成し遂げること
ができた

この国の国際信用力を守る

国際社会からの冷たい目

僕が、その調査活動を通じて一番やりたかったことは、「この国の国際信用力を守る」ことでした。 なぜならば、元々国会に調査委員会ができた背景には、当事者である東京電力が調査し、政府も調査したけれど、当事者が調査した報告書だったので、まぁお茶を濁したような報告書を出して。 それで、「お前ら何考えとんねん」っていう国際社会からの冷たい目。そんな中で歴史上初めて、議会である国会に調査委員会が立ち上がりました。

ただ、霞ヶ関を含めてあらゆる団体からの影響を排除したので、平たくいうと、つながりも人脈も力もない。 ミッション・インポッシブルとも言われた活動の中で、調査活動を一手に担っていました。事務局の方々の全面的な協力を得て、ある意味、活躍する舞台を与えられたという感じでした。

活躍する舞台を
与えられた

猛烈な怒り
「何なんだ、この日本社会は!」

報告書に向き合えなかった日本

調査委員には、原発賛成から反対の人までいたけれども、日本を代表するような、そんな方々から本当に称賛されるような活動だったし、活躍でした。

調査の後、報告書を作りました。その後のプロセスが、僕としては相当しんどかった。 報告書としてまとめたときには「この報告書をこの国に出せば、この国は変わるんじゃないか?」「福島の復興の足掛かりになるんじゃないか。」そんな想いを持って国会に提出しました。 しかし残念ながら、この国は、報告書にストレートに向き合うことができなかった。報告書自体は、海外からかなり高く評価され、原子力政策の大きな参考にした国もいくつかありましたが。 その過程を含めて、猛烈な怒りを感じました。「何なんだ、この日本社会は!」と。

いま振り返って思うことは、簡単に言うならば、「自分は正しい、周りは間違っている」という世界観の中から、自分の周りやこの日本社会を変えようとした感じですね。 でも、それでは当然うまくいかないですから(笑)。